LOGIN結衣の部屋に流れた妙な沈黙を最初に破ったのは、悠真だった。
「とりあえず、これ。おばさんから」
彼は手に持っていた紙袋を持ち上げた。中から大根の葉が少しだけ覗いている。
「野菜?」
「大根、ほうれん草、じゃがいも。それから煮物。『結衣はどうせろくなもの食べてないから』だってさ」
「母さん、私を何だと思ってるんだろう」
「冷蔵庫に調味料しか入ってない女」
「失礼な。卵もある」
「賞味期限は?」
「……昨日」
「ほらな」
悠真が呆れたように笑う。
いつもどおりのやり取りだった。
なのに玲司がいるだけで、結衣には妙に落ち着かなかった。
「入る?」
結衣が聞くと
第64話 家令の部屋に、十九年前の「鍵」が残っていた 旧家令室という言葉を聞いた瞬間、玲司は榊を呼びつけなかった。 そこにいる全員が、それを少し意外に思ったらしい。篠崎でさえ端末から顔を上げたが、玲司は監査画面を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。「まず、部屋そのものを調べる」 ようやく出した指示は、それだけだった。 結衣は隣から玲司を見る。「榊さんには?」「知らせる。ただし、犯人みたいな呼び方はしない」「うん」「旧家令室から通信が出たという事実と、榊が操作したという事実は別だ」 少し前なら、この切り分けを結衣が口にしていた。 今は玲司自身が先に言う。「何だ」 見られていることに気づいた玲司が聞いた。「何でもありません」「また成長したと思った?」「今日は言いません」「思ってはいるんだな」「かなり」「結局同じじゃないか」 そんなやり取りをしてから、二人は篠崎と警備担当を伴い、本邸北側の旧管理区画へ向かった。 * 旧家令室は、今の榊が普段使っている執務室とは別にあった。 本邸が大規模改修される前まで、九条家の使用人、警備、運転手、私設医療スタッフまでを統括する中枢だったらしい。重い木製扉を開けると、長く人が常駐していない部屋特有の乾いた匂いがした。 古い机。 壁一面の収納。 館内連絡用だった電話機。 十九年前なら高性能だったのだろう大型端末が、今では家具の一部のように壁際へ残されている。「ここから?」 結衣が尋ねる。 篠崎が携帯端末を確
第63話 私たちの結婚を、囮にはしない 玲司と結衣の婚姻状態を、今この瞬間も誰かが確認している。 その事実が判明した翌朝、篠崎は本邸の小会議室へ、夜通し整理した監査記録を持ち込んだ。「先に訂正いたします」 開口一番そう言われ、玲司が眉を上げる。「何を」「昨日確認された『婚姻状態照会』ですが、現時点では不正アクセスと断定できません」 結衣は意外に思った。「正規の照会だったんですか」「正確には、正規に作られた自動照会です。十九年前から残る第二経路の中に、特定条件を定期確認する監視機能がございます」「誰が設定した?」「七年前です」 玲司の表情が変わった。 篠崎が画面を切り替えると、設定日の横に、二人の名前が表示された。 九条圭司。 そして。 御子柴冬一郎。「兄貴?」「はい」「御子柴先生も?」「本人へ確認済みです。設定した事実は認めておられます」 結衣は昨日まで感じていた気味の悪さが、少しだけ別の形へ変わるのを感じた。「じゃあ、圭司さんたちが玲司さんの結婚を監視してた?」「言い方に悪意がありますね」 玲司が嫌そうに言う。「だって実際」「もっと普通の言い方はないのか」「未来のお嫁さん待ち機能?」「悪化した」 篠崎がわずかに視線を落とした。「設定の目的は、エレノア様が残された文書の開示条件を確認するためです」 結衣は姿勢を正した。 正式な婚姻成立後。 玲司が自ら選んだ配偶者へだけ開示さ
第62話 七年前の仕組みは、今も私たちの結婚を見ている 十九年前に作られた「緊急継続承認」という仕組みが、なぜ七年前にも、そして十七日前にも使えたのか。 玲司が最初に調べさせたのは、誰が操作したかではなかった。「廃止されずに残っている理由から確認する」 朝の会議室には、征一郎、美佐子、桐谷、御子柴まで揃っていた。誰か一人を問い詰めるためではない。制度を作った者、運用した者、法務から見た者、それぞれの記憶を同時に突き合わせるためだった。 結衣は、その顔ぶれを見ながら少し妙な気分になった。 つい数週間前なら、同じ部屋に集めれば互いを疑うだけだった人たちだ。 今は違う。 疑わなくなったわけではないが、「誰か一人を犯人にして終わらせない」という共通認識だけはできている。「契約そのものは毎年更新されているわ」 最初に答えたのは美佐子だった。 玲司が顔を上げる。「誰が更新してる」「ここ七年は私よ」 部屋の空気が少しだけ変わった。 美佐子はそれに気づき、苛立ったように腕を組む。「その顔をするなら先に言っておくけれど、私は不正アクセス用の裏口だなんて説明を受けていないわよ。誘拐、災害、当主不在時の緊急連絡網と、家族資産の継続管理システムだと認識していた」「契約書を読まなかった?」 玲司の問いは厳しい。「読んだわ」「なら第二経路は」「技術付属書の四十七ページよ」 美佐子も引かなかった。「一年に何百件も回ってくる契約の中で、十九年前から存在している既存システムについて『今年も継続』と書かれた書類を、毎年ゼロから疑って読んでいたかと聞かれれば、読んでいない。それは私の責任よ」 言い訳をしない代わりに、自分を
第61話 死んだ監査人が残したのは、犯人の名前ではなかった 村瀬隆臣という男について、玲司はこれまで「事故後に九条家を調べ、八か月後に自宅火災で亡くなった外部監査人」としてしか見ていなかった。 だが、東亜アセットシステムズの古い委託契約を洗い直すと、肩書きだけでは見えなかった役割が浮かんできた。「社員ではなかったんですね」 翌朝、結衣が資料を読みながら言うと、篠崎が頷いた。「はい。村瀬氏は独立系の監査法人に所属し、九条家関連システムの外部統制責任者として委託されていました。システムへ自由に入れる技術者というより、重要な代理認証が適切に行われているか確認する立場です」「つまり、鍵を使う人じゃなくて」「誰が鍵を使ったかを見る人間です」 玲司が答えた。「それなのに、記録上は村瀬さんの承認で圭司さんのIDが使われた」「はい」 篠崎が新しい画面を出す。「しかも村瀬氏本人は、事故の十日前に『自分の承認権限が複製されている疑いがある』と契約終了を申し出ています」 結衣は椅子の背にもたれた。「じゃあ、少なくとも本人は気づいていたんですね」「気づいたから辞めようとした」 玲司の声は落ち着いていたが、指先だけは資料の端を強く押さえていた。「問題は、その申請が受理されていないことだ」「誰が止めたんです?」「そこが残っておりません」 玲司が嫌そうに目を細める。「都合よく消えてるな」「ただし」 篠崎は続けた。「村瀬氏は、申請書とは別に個人的な監査記録を残していた可能性があります」「どこに」「一ノ瀬浩一郎先生へ確認したところ、村瀬氏から事故後に一度、『自分が死んだら
第60話 父は家族会議に参加したのではなく、止めに来ていた 軽井沢の迎賓施設で撮られた古い写真に、白石真帆の父・孝一が映っていた。 本来なら、そこにいる理由がない男だった。 九条記念医療センターの元事務局長。病院への匿名寄付を扱っていた人物ではあるが、九条家の後継問題を話し合う非公式の家族会議へ出席する立場ではない。「真帆さんに確認します」 結衣が言うと、玲司はすぐ頷いた。「ああ。ただ、写真を見せて『父親は何をしていた』と詰めるような聞き方はやめよう」「分かってます」「彼女自身、父親から全部聞かされていたとは限らない」「玲司さん」「何だ」「最近、私が言おうとしてたことを先に言いますよね」「悪いか」「悪くないですけど、ちょっと悔しい」「なぜ」「私の役割が減るから」 玲司が少し笑った。「君には他にも十分ある」「例えば?」「俺が間違ったときに止める」「それは残ってるんですね」「多分なくならない」 自信を持って言うことではない。 結衣が呆れている横で、篠崎はすでに真帆への連絡手続きを始めていた。 * 真帆と繋がったのは、日本時間の昼過ぎだった。 英国は早朝に近い時間だったが、彼女はすでに起きていたらしく、画面の向こうで髪を簡単に束ね、湯気の立つマグカップを手にしている。『写真を送ってください』 結衣が軽井沢で撮られた画像を共有すると、真帆はしばらく黙っていた。『父です』「やっぱり」『でも』 真帆の
第59話 偽の婚約者は、結婚するために作られた女ではなかった 香坂美玲という名前を、玲司の祖父・征一郎は覚えていた。 ただし、「玲司の婚約者候補として」ではなかった。「英国から来た家族資産管理の助言者だったはずだ」 翌朝、本邸へ呼ばれた征一郎は、軽井沢の迎賓施設で開かれた七年前の非公式会議の参加記録を前に、珍しく自信のない言い方をした。 年齢のせいだけではないのだろう。あの事故を挟んだ時期の記憶は、誰にとっても出来事が多すぎる。何を事故の前に知り、何を事故後に聞いたのか、本人の中でも境目が曖昧になっている部分がある。「顔は覚えてる?」 玲司が尋ねると、征一郎は篠崎が用意した古い写真をしばらく見つめた。「この女だ。間違いない」 写真には、軽井沢の迎賓施設の玄関前で撮られた十数人の集合写真が残っていた。 中央には征一郎、その隣に美佐子。少し離れたところに桐谷がおり、端のほうに三十歳前後に見える女性が立っている。 香坂美玲。 玲司の婚姻候補として作られていた資料の写真とは、顔が違った。「やっぱり別人ですね」 結衣が言うと、美佐子が腕を組んだ。「そもそも私は、この人が玲司の結婚相手候補だなんて一度も聞いていないわよ」「会議では何と紹介された?」「英国側のファミリー・ガバナンス専門家。エレノアさんの母方資産にも詳しい人間だと」「誰が呼んだ」 玲司が桐谷を見る。 桐谷は逃げずに答えた。「私です」 結衣が驚いて振り向く。「桐谷さんが?」「はい。ただし、私が個人的に選んだわけではありません。ウェリントン側へ『圭司様に不測の事態があった場合の未成年後継者保護について助言者を派遣してほしい』と依頼しました







